にこにこにこむぎ。

比べたがり屋の世間に流され疲れたら、またおいで

一瞬と記憶

 

疲れているときとか、やらなきゃいけないことが多いときほど文章を書きたくなってしまう性なので、何でもないことを書きますね。

 

わたしがブログを始めたのは中学2年生の夏だった。中1の終わりにアメーバブログが流行って、みんなアカウントを作って友達のブログにコメントをし合うようになっていて、最初はコメントをするだけだったわたしも、ツイッターのような機能を持った「なう」で呟くようになり、最終的にブログを書くようになった。何を書いていたかは覚えていないし、いま見返したらきっと若気の至りで黒歴史のような内容なのだろうなとは思うんだけど、一つ覚えているのは自分のタイトルの付け方。

 

例えば体育祭に関する内容を書いた記事のタイトルを「体育祭」にはしたくなかったし、テレビを見た感想を書くにしても番組名にはしたくなかった。タイトルを見てこんなことが書かれているのだろうと他の人が推測できるような言葉が嫌いだった。

 

浅はかで単純に見えてしまうというか、型にはまったみんなと同じブログは嫌だなって思ってしまって。こういうところ捻くれているし、こだわってしまうし、人と被ることを頑なに嫌ってた。それは今もかもしれない。自分は影響されやすい面や人に憧れやすい面があるくせして、みんなと同じは苦手だし、いざ自分が真似されると嫌悪感を示してしまう。

 

さすがに今はもう一つ一つの意味を覚えてないけど、タイトルにはそのときの心情がこもっていて、当時過去の記事を見返すと「この日はこんなことがあって苦しかったんだよな」とか「これは新しい目標を見つけた日だ」とか自分で自分の気持ちを思い出せていた。

 

タイトルと内容は全く一致したものではなかったし、そのタイトルも読者にはさっぱり分からない言葉だらけだったけど、自分はとても思い入れのあるものだったし気に入っていた。書くことが好きだから色んな出来事を文章にしたくなってブログを更新していたというのももちろんある。だけど、わたしはその時々の感情をタイトルに込めることも楽しんでいたのかもしれないなと、今になって思う。

 

このブログでは内容に即したタイトルにしていて、それは、ひとりごとを垂れ流すためのツールとして利用するというより、きちんとまとめておきたいことや後から振り返りたいことにいつでも着地できるようにという意味が大きいからかなと。

 

あとは「読者やフォロワーを意識する」というのが大事なのだなと感じたからというのも大きい。自分のイメージが形成されるSNSなのだから、複数持っているアカウントごとにその性格を自分で作って行く必要があるのだろうなと。実際にフォロワーが多い方って自分なりのルールや軸があって、それに反した投稿はしないようにしたり後から消したりしているそうで、言われてみれば自分はあっちこっちに目的が点在してしまっているように感じた。だから見られるときを意識した「分かりやすさ」も大事だなと過去のブログアカウントで学んで、はてなブログを始めたときはタイトルを内容と合わせるようにした。

 

「匂わせ」と呼ばれるツイートをする人もいて、それはわたしもそうだなと感じる。わたしが匂わせツイートをしてしまう所以は、内容が分かるタイトルをつけたくない自分がいるように、意味がそのまんまである内容を発信するのが何だかかゆく感じるという面が大きいのかもしれない。ストレートに言うことをカッコ悪く思って素直になれていないと言えばそれまでだけど。中高時代は何かあるとタイトルにそれをぶつけることができたけど、綴って行く場所がなくなったことでいまはそれをツイートに乗せたくなってしまっているのかも。

 

見られることを意識した勝手な義務感で「このブログではジャニーズやアイドルごとしか更新しちゃだめなんだ」みたいな意識を持ってしまっていたし、確かに統一性は持たせたいなと思っている、けど、人より考えることが多い分、何でもすぐに吐き出さなきゃ言いたいことも言えないまんまだし、忘れたくないことも覚える隙間もなくなってしまうなって、ふと思った。

 

自分の気持ちと向き合って、誰にも分からないけど唯一無二のタイトルを考えるっていうポエマーみたいなあの時間が自分にとって楽しい時間だったなというのを思い出すと、学生時代も書くことをきちんと楽しめてたんじゃん自分って救われた気持ち。

 

昔の自分が書いていたような言葉を久しぶりに書いて、いますごく清々しい気分。いつもと文体とかテンションが違うけど、わたしはいつでもSNSがあるからこそ毎日を生きていけてるみたいなところがあって、形や場所が変われど、自分は書き起こしてどこかに落とす作業がずっと好きなのだな。

 

おしまい